青森県神社庁
6. 国譲(くにゆず)
kuni_yuzuri
 天照大御神(あまてらすおおみかみ)さまは、孫の邇邇芸命(ににぎのみこと)豊葦原瑞穂国(とよあしはらみずほのくに)を治めさせようと考えられ、建御雷神(たけみかづちのかみ)天鳥船神(あめのとりふねのかみ)を使者としてむかわせました。
 二柱(ふたはしら)の神は出雲国(いずものくに)稲佐(いなさ)の浜に天降(あまくだ)ると、(つるぎ)を抜き、その(つるぎ)波間(なみま)に逆に刺し立て、その先にあぐらを組んで座りました。そして豊葦原瑞穂国(とよあしはらみずほのくに)を治めている大国主命(おおくにぬしのみこと)に、天津神(あまつかみ)御子(みこ)(ゆず)るかどうか問いました。
 大国主命(おおくにぬしのみこと)はしばらく考える様子でしたが、もし自分の子供たちが良いというのなら、この国は天津神(あまつかみ)御子(みこ)にお(ゆず)りいたしますと答えました。
 大国主命(おおくにぬしのみこと)には事代主神(ことしろぬしのかみ)建御名方神(たけみなかたのかみ)という子供がいました。事代主神(ことしろぬしのかみ)はすぐに承知(しょうち)しましたが、建御名方神(たけみなかたのかみ)は力自慢(じまん)の神で、なかなか納得(なっとく)しませんでした。
 そこで建御雷神(たけみかづちのかみ)と力比べをしたところ、建御雷神(たけみかづちのかみ)の手が氷のようになり、また(つるぎ)の刃のようになりました。それにはたまりません。
 建御名方神(たけみなのかたのかみ)は父である大国主命(おおくにぬしのみこと)の命令に(したが)うことを約束しました。その後、建御名方神(たけみなかたのかみ)信濃国(しなののくに)(今の長野県)に移りました。
 さて、このことを大国主命(おおくにぬしのみこと)に告げると大国主命(おおくにぬしのみこと)は自分の(かく)れ住む宮殿を、天津神(あまつかみ)の宮殿のように造ることを願い、そこに移り住みました。こうして豊葦原瑞穂国(とよあしはらみずほのくに)天津神(あまつかみ)御子邇邇芸命(みこににぎのみこと)(ゆず)られたということです。  
神名・地名表記の漢字には他の文字があてられる場合もあり、別名を持つ神々も多くいらっしゃいます。
神話 国譲りについて
 国譲りは大国主命が治めてきた豊葦原瑞穂国が天照大御神の孫の邇邇芸命に譲られる経緯を語り伝えるものです。
 最初は天菩比神(あめのほひのかみ)が、次に天若日子(あめのわかひこ)が派遣されますがうまくいかず、建御雷神と天鳥船神によって平定されます。建御雷神と建御名方神の力比べは相撲の起源ではないかといわれています。
 大国主命が移り住んだ宮殿は、出雲大社として平安時代の書物には当時日本一大きい建物と記されています。また、信濃国に移った建御名方神は諏訪大社にお祀りされています。
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