青森県神社庁
猿賀神社
南黒地区
056
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住所
平川市猿賀石林175
 
御祭神
上毛野君田道命 
(相殿神)保食神
恒例祭
開運厄除節分祭  二月第一日曜日
七日堂大祭     旧暦正月七日 (柳からみ神事)
                       (餅まき神事)
祈年祭         旧暦二月十五日
崇敬会大祭     五月三日(鬼面奉射神事)
                    (津軽神楽奉奏)
弓道大会       五月上旬
御田植祭       五月下旬
十五夜大祭     旧暦八月十四日(獅子踊大会・宵宮祭・津軽神楽奉奏)
                    十五日(例祭・観月祭)
                   十六日(神恩感謝祭)
苅穂祭        十月上旬
新嘗祭        十一月二十三日
 
由緒
古典(日本書紀)によれば田道命は「仁徳天皇五十五年(西暦367年)勅命を受けて北夷の反乱平定のため東北地方に兵を進めたが、戦利あらず、伊寺の水門で戦死なさる。後に大蛇の姿となって平定した」とある。又社伝によれば「五十六年蝦夷の毒手に敗死なされ、従者その屍を仮葬し、賊を捨て帰京す。蝦夷その墳墓をあばくに、たちまち遺体大蛇と化して毒気を吐発す。土人大いにおそれて鹿角郡猿賀野に祀って産土神となす。その後、二百年の星霜を経て、欽明天皇二十八年(567年)に大洪水あり。この時、田道命の神霊、白馬にまたがり漂木を舟として流れにしたがい、当地に移遷し給う、当地住民神霊を迎え奉て古木(鍋木)の洞穴に祀る」と、云われている。桓武天皇の御代に再び暴夷を平定することになり、坂上田村麻呂将軍が兵を進め苦戦となった際、田道命の霊感を受けて大勝した。よって将軍は延暦十二年(793年)八月二十三日現在の地に祠を祀り、その趣を天皇に奏上した処、勅命により、大同二年(807年)八月十五日社殿を造営、奥州猿賀山深砂大権現として勧請し、神威天長、国家安穏、黎民豊楽、悪鬼退散を祈願した。以来猿賀の深砂宮(神蛇宮)と崇められ御神徳四方に遍く、地方唯一の霊場と仰がれるに至った。かつては国司、探題、(藤原秀衡公、北畠顕家卿、阿倍氏代々等)の崇敬篤く、藩政時代に入り藩主津軽為信公により、祈願所と定められ社殿の改修造営、また社領の寄進などしばしばであった。明治四年太政官政令にて権現号を廃して猿賀神社と改称し、明治六年郷社に列せられ、更に明治十三年県社に昇格、戦後は社格が廃せられたが、昭和三十四年神社本庁別表神社に加列せられ今日に及んでいる。崇敬者は県内は勿論、北海道並に東北一円に及び眼の守護神とする特殊信仰並びに、辰年、巳年生まれの守護神として広く崇敬されている。
地図